渋谷街角コラム

渋谷駅の歴史

1.はじめに

 現在再開発が進められており、国内有数の賑わいを誇る渋谷。今回の街角コラムではそんな渋谷の歴史、その中でも渋谷のシンボルと言える渋谷駅の歴史について紹介していきたいと思います。

2.渋谷駅の概要

 まず渋谷駅の概要について紹介していきたいと思います。東京都渋谷区に所在する渋谷駅はJR東日本(山手線、埼京線、湘南新宿ライン、成田エクスプレス)、京王電鉄(井の頭線)、東急電鉄(東横線、田園都市線)、東京メトロ(銀座線、半蔵門線、副都心線)の4社線が乗り入れるターミナル駅です。若者の街と称される渋谷の賑わいを支えており、周辺には渋谷スクランブルスクエア、渋谷マークシティ、渋谷ヒカリエなど複数の大型商業施設が立ち並んでいます。
 4社線の利用者が乗り降りする渋谷駅の1日の乗降者数はスタディサプリの調査によると2,803,542人と大阪府大阪市の人口とほぼ変わらない人数を誇っています。この驚異的な乗降者数は新宿駅に次いで世界2位を誇っています。 渋谷駅周辺の待ち合わせスポットとして有名なのはやはりハチ公像でしょう。このハチ公像には実は興味深いヒストリーがあるのです。物語は戦前にまで遡ります。
 飼い主が亡くなった後も、毎夜渋谷駅で主人の帰りを待ち続けた忠犬ハチ。この美談に心をうたれた有志たちにより、1934年4月21日にハチ公像が建てられました。またこの美談は日本だけでなく、欧米でも紹介されていたと言います。
 現在建てられているハチ公像は実は2代目。先述のハチ公像は1944年に撤去され、現存していません。この撤去は当時勃発していた太平洋戦争に関連があります。
 戦争の国内情勢から深刻な物資不足に陥っていた日本は、勅令により全国の様々な寺の鐘や銅像、庶民の使うお鍋や子供の玩具すら回収していたのです。ハチ公像も例外ではなく、惜しまれつつも回収されてしまいました。そして敗戦から3年後の1948年8月、現在も愛されている2代目ハチ公像が建てられました。当時はまだ日本は連合国の占領下にありましたが、先述の通りハチ公の話を知っていたGHQの愛犬家たちにより支援があったと言います。ハチ公像は戦前から戦中そして現代へと続く歴史があるのです。

3.渋谷駅の歴史

 ここからは渋谷駅の歴史について解説していきます。
 江戸時代までの渋谷は江戸の郊外地で、「宮益坂」「道玄坂」は参拝者などの往来で賑わっていましたが、「渋谷川」沿いは田畑が広がる田園地帯でした。
 しかし明治期に入ると、1885年に日本鉄道品川線が開通し、「渋谷駅」が開業しました。その後、1906年に日本鉄道を国有化(以下「国鉄」と表記)すると、国鉄線が電化されて名称が「山手線」に改称されました。さらに、玉川電気鉄道(玉電)玉川線や東京市電青山線も開通しました。
 大正期はまず1920年に旅客駅の「渋谷駅」が移動し、旧駅は貨物駅となりました。翌年以降、恵比寿・渋谷間、渋谷・原宿間に貨物専用線が開通し、「渋谷駅」付近の国鉄山手線が複々線化していきました。玉電や市電青山線も延伸し、1925年には国鉄山手線が環状運転を開始しました。
 昭和戦前・戦中期は、1927年に東京横浜鉄道(東横電鉄)、1933年に帝都電鉄渋谷線が開業、1938年には東横電鉄が玉電と合併し、1940年には帝都電鉄渋谷線が小田急帝都線になりました。また、1942年に東横電鉄と小田急が合併し東京急行電鉄(東急)となり、翌年には市電が都電に改称されました。こうした変遷を経て、時代は戦後に移り変わっていきます。
 昭和戦後期は、委託先の変更などから多くの路線の名称が変化したり、路線の廃業や開通などが積極的に行われました。1980年には国鉄駅での貨物取扱いが廃止になったり、1987には国鉄が民営化をしてJR東日本となるなど歴史的に大きな変革が起こったのもこの時代でした。
 平成期に入ると、JR埼京線・湘南新宿ラインの運航開始や京王帝都電鉄の名称が京王電鉄に社名変更が行われたり、 東急新玉川線が東急田園都市線に統合されるなど、現代になじみある状態になってきました。2004年には営団地下鉄民営化が実施され東京メトロとなり、2008年には東京メトロ副都心線が開通しました。また、2013年には東急東横線の駅が地下に移転し、東京メトロ副都心線と直通運転が開始されました。
 令和期に突入した現代も、東京メトロ銀座線の新駅舎が供用開始されるなど変化を続けています。今後も渋谷駅は時代とともに変化し続けていくでしょう。

4.かつての渋谷駅が出てくる映像作品

 現在渋谷周辺は大規模な再開発の真っ最中です。また渋谷駅も明治時代の開業以来幾度となく改修が行われています。そのため、渋谷駅周辺で撮影された多くの映像作品の中には今はもう見ることが出来ない渋谷駅の姿を映した貴重な資料になっているものもあります。その中でも今回の街角コラムでは1974年から75年にかけて日本テレビ系で放送されたテレビドラマ『傷だらけの天使』を紹介させていただきます。
 悪徳探偵事務所「綾部情報社」の調査員である修(演:萩原健一)と享(演:水谷豊)の二人が、社長から毎週掲示された依頼に翻弄される姿を描いた『傷だらけの天使』。捨て子の親探しからヤクザのイカサマ賭博の手伝いまでとバリエーション豊かな依頼や、ワルになり切れない二人の人間臭さ、『仁義なき戦い』の深作欣二や『必殺シリーズ』の工藤栄一などの豪華スタッフ。そして早世の名脇役・岸田森の在りし日の姿が見れる本作は放送終了からほぼ半世紀近く経った現在でも根強い人気があり、昭和ドラマの最高傑作として本作を推す声すらもあります。
 そんな伝説のドラマ『傷だらけの天使』に渋谷駅が出てきたのは記念すべき第一話「宝石泥棒に子守唄を」です。主人公の修は社長から宝石強盗を依頼されます。修は宝石店からダイヤやルビーを奪い取り、逃走を図るのですが、その逃走シーンのロケ地は当時の渋谷駅周辺が使われていたのです。(因みに修は逃げている最中に子供とぶつかり、怪我をさせてしまうのですがその子役は現在でも俳優・タレントとして現在でも活躍中の坂上忍さんです。)そのシーンにはかつて地上駅だった時代の東急東横線の駅舎、通称「カマボコ屋根」が映っているのです。このカマボコ屋根は現在は取り壊され、跡地には現在渋谷ストリームなどが建っています。ちなみに渋谷ストリームの五階にはカマボコ屋根をオマージュした貫通通路が作られており、ショーケンが走った渋谷の町に思いを馳せることも出来ます。
また、修から宝石を受け取った享はバスに乗って逃走するのですが享が乗ったバスの停留所が渋谷駅で、しかも乗ったバスが1980年頃まで走っていた通称「美濃部カラー」の都営バスだったのです。さらにバスの系統番号も現在使われている「渋88」ではなく、1984年頃まで使用されていた「橋88」であったりと「宝石泥棒に子守唄を」は質の高いドラマというだけでなく、1970年代の渋谷駅の街並みを映した貴重な映像資料となっているのです。

カマボコ駅舎をバックに走る修。『傷だらけの天使』第一話より引用
渋谷駅のバス停と美濃部カラーのバス。「傷だらけの天使」一話より引用

5.おわりに

 今回の街角コラムでは、渋谷駅の歴史について紹介いたしました。現在渋谷駅は再開発が進められており、新たな渋谷が生み出されていますが、孔子の論語にも「温故知新」という言葉があるように、時には昔の渋谷を振り返ってみるのも大事でしょう。
 その他店舗・オフィス選びの際の注意すべき点については、賃貸オフィスコラムにて掲載しておりますので、下記のリンクから是非ご覧ください。
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